ペチュニア 八代
八代村道路元標(学校入り口)
八代小学校、北俣小学校、深年小学校が平成21年度に統合され、旧八代村時代のように、八代小学校だけになります。私たちが住んでいる旧八代村は
どのような地域だったのでしょうか。その歴史と、文化、生活をながめてみます。
歴 史 古代 中世〜戦国 明治 大正 昭和 平成 、「国富」の地名 八代の地名、八代城址、伝説の坂道、郷土街道と歴史 籾木池 国営灌漑工事
陸軍飛行場跡 米良の庄から籾木へ
伝 統 花祭り 川上神社伊勢音頭踊り 川上神社大祭 諏訪神社大祭(バラ太鼓踊り)
古いもの 八代村道路元標 馬頭観音 干害記念碑 御大師様) 神社(川上神社 諏訪神社 法華嶽薬師寺 秋葉様 森田の五輪 深年神社)
→農業 →自然 →沿革
歴史
古代
・10世紀頃、日向国は5郡、28郷からなる。国富町内は、県田、八代の2郷がありました。
【10世紀前半の『和名類聚抄』】
日向国
臼杵郡 氷上 智保 英多 刈田
児湯郡 府 三納 穂北 大垣 三宅 観於 韓宅 平群 都野
那珂郡 夜開 新名 田島 物部
宮崎郡 飫肥 田辺 島江 江田
諸県郡 財部 県田 瓜生(国内、野の字を加えて宇利布乃と云う)山鹿 穆佐 八代 大田
春野
日向国は5郡、28郷からなっていました。国富町内は、県田、八代の2郷
諸県郡の中心は、本庄付近だと考えられている。(「国富町郷土史上巻」p142から)
中世〜戦国
・南北朝時代、南朝方についた伊東祐広は建武五年(1338年)八代城を攻められ、敗れました。
・14世紀終わりごろ、鎌倉から日向に下向した伊東祐持の子祐重は都於郡を拠点(きょてん)にして日向支配を本格的にする。その子祐安は三ヶ名(仮屋原城)や八代氏を
攻め、祐興をして八代氏を継がせます。同時代に伊東一族の深歳氏にも統制を強めた。
・1391年島津元久が日向守護に任ぜられる。
・1412年島津家を継いだ久豊と伊東祐安が対立し、久豊は穆佐から退き伊東氏の領地が拡大する。1456年頃までに伊東市は宮崎平野を領地し、16世紀中頃までに最大
版図となる。 (国富町内の伊藤氏の城は、八代、木脇、本城)
・1572年 再び島津氏(義久)と木崎原で合戦、伊東氏が敗北する。伊東氏は大友氏に頼る。島津藩領となる。(八代城は相良新介)
・豊臣秀長の島津征伐(1587年高城合戦)により島津は秀吉に下る。秀吉の国割りにより、本庄、森永は高橋元種に、宮王丸、伊左生は秋月領となる。
八代・深年等は、島津領(義弘)として残る。
【江戸時代の国富の村と藩の領地】

※ 三ヶ名村は、現在の三名
明治
【明治初めの郷士】

八代南俣村、北俣村、深年村には、士族が多い。他藩との境に位置し、防衛を固めたためである。
【明治時代の農村生活】
国富町郷土史上巻 p334から作成
【産物】 深年や北俣村では畑が多く、楮皮、紙、炭などの生産が主であった。
・明治6年宮崎県に属す
・明治9年宮崎県廃止で鹿児島県に合併
・明治16年に宮崎県の再設置とともにこれに属す
・1889年(明治22年)5月1日 町村制施行により、現在の町域にあたる東諸県郡本庄村・八代村・木脇村が発足。
旧本庄郷の六日町・十日町・北本庄村・南本庄村・森永村・竹田村・須志田村、秋月領の宮王丸・嵐田村及び島津領の田尻村・向高村を合わせて本庄村として発足した。
八代村は、八代南俣村・八代北俣村・深年村及び高鍋藩秋月 領の伊左生村が合併したものである。木脇村は、木脇村・塚原村・三名村及び岩知野村を合わせて木脇村
として発足。
※ 伊左生は、水田の水源の関係で八代村との合併を希望した。
※ 明治22年頃の戸数

大正
・1914年(大正3年)第13代有吉知事は、薩摩原開田給水事業を開始
薩摩原ため池は、現在は籾木池と呼ばれています。大正5年に竣工されましたが薩摩原の下層土が火山灰土であるためたくさんの用水量を確保する必要がありま
した。

【薩摩原ため池(籾木池)のこと】
この地域は、昔から広々とした山林原野でしたが、明治時代に県外からの移住が始まり、大正3年(1914年)にため池を作り始め、2年間で県内で最も大きいため
池が完成しました。このため池から65ha(約3,000人の大人が1年 間食べるお米を作る面積)の田んぼに水を引いて稲が作付けされました。この事業は大正初期
の三大開田事業といわれています。
しかし、水不足による争いが絶えず、農家の人たちは大変困っていました。そこで何度もため池や水路の修理を行いました。 中でも昭和の初め、初代組合長緒
方覚太郎は自分のお金を使って用水の節約と地力を上げるため一生懸命努力しました。
その後、このため池や水路も古くなったため、改修工事を行い、平成3年度に立派な施設が完成しました。現在ではこのため池のおかげで水不足も解消し、お米
を中心に千切り大根等の様々な作物が作られ、地域の発展に大きく役立っています。
池の周囲 4,000m 池の広さ15ha 堤防の長さ129m 堤防の高さ23.6m
灌漑地域
・1915年(大正15年)六野原に陸軍仮設飛行場ができる。(昭和16年飛行場本格建設)
六野原台地
六野原古墳群跡 昭和九年四月一七日 県指定史跡八代古墳
【六野原古墳群のこと】
ここ六野原は、国富町の大字三名から大字北俣に欠けて広がる標高100m面積約300haの県下有数の平野です。かつてこの六野原台地上には、前方後
円墳1基、円墳16基があり、昭和9年(1934年)に県指定史跡となりました。しかし、昭和17年(1942年)、この台地に陸軍飛行場が建設されることになり、宮内省・文
化賞の許可を得て、飛行場敷地にかかる古墳11基と新たに発見された地下式横穴墓27基の発掘調査と移転改葬が県によって行われました。出土した刀・鉄ぞ
く・斧頭・鋤先・倣製の内行花文鏡・短甲・環頭太刀などは、現在県立博物館に保管されています。
・1919年(大正8年)3月1日 本庄村が町制施行。本庄町となる。
昭和
・1956年(昭和31年)9月30日 本庄町・八代村が対等合併し、国富町が発足。
・1957年(昭和32年)3月31日 東諸県郡木脇村を編入。
国営事業として、国営綾川農業水利事業が承認。翌33年、着工
国営綾川農業水利事業
綾町、国富町、西都市、佐土原町の計3,042haの田畑を灌漑するというもので、昭和32年より着手、14年の歳月を経て完了した。北俣(薩摩原)、八代(川上
原)、深年(高田原)の3台地を潤した。この事業の効果は大きく、とりわけ昭和42年の大干ばつではその効果を遺憾なく発揮(農業収益が増大)した。受益
面積3,042haのうち、2,044haが畑地灌漑。
http://suido-ishizue.jp/kokuei/kyushu/miyazaki/ayakawa/0206.html
「国富町」の由来 (国富町HPから)
町名の由来は、古い時代にこの地方を国富本庄あるいは、国富本庄神陵京(かみはらみやこ)・国富本庄神原邑(かみはらむら)などと呼んだことにちなみ名づけられました。
旧本庄町は、古くは高日邑(たかひむら)または国富邑(くにとみむら)といい、豊園別命(とよくにわけのみこと)以来「国造(くにのみやつこ)」の代々治めたところであり、
江戸時代の正保2年に、この地は天領とされ、以来明治維新まで幕府直轄領でありました。
八代の地名(やつしろのちめい)
■ 八代は昔八つの城があって八代というとは誤りで、八城時代というのは都於郡伊東領となった 応永四〜天正五年(1397〜1577)の180年問で、八代の地名を物
語るのに、薩摩里謡に、「諸県や、 八代、須志田、綾、穆佐、庄内、真幸、志布志、大崎」と古代諸県の主要地が紹介されている。 ここに「古代」とあるのは、奈良時
代(710〜800)頃を指す。また八代は、「諸県の東北部 にあって、児湯、那珂、宮崎の三郡と境して古代日向の中心地を形成せり」とも日向史は伝え
ている。
奈良時代、武内宿称の四代の孫角氏は都農へ、平郡氏は平郡へ、そして八代氏は八代へその地 の支配者として移り住んだがこのことと地名は深い関わりがあ
る。古い時代から八代の中心が、 馬場から川上あたりであったろうことは歴史的背景からも伺われる。
南北朝時代(2235年)伊東祐広が八代城に籠り北朝方同族伊東祐持将軍や土持軍と戦ったこと は有名である。天正5年(1577)秀吉の九州征伐の結果八代は薩
摩島津領となって明治維新まで高 岡郷の内八代として高岡、佐土原、鹿児島との往来が盛んであった。
今、城跡に立ってみると、周囲は一望のもとに見通せるし遠くは宮崎平野も望まれる。八城の 内八代城だけは城内も小さいながら天守閣も備えたと伝えられてい
る。昭和10年(1935)に建立 された祐広公の記念碑と三十数本の桜木の調和は素晴しいものだった。
現在の馬場地区は当時の侍たちの乗馬の訓練場であったし村社川上神社祭礼の流鏑馬の場であ った。また弓場の地名も残っている。昔馬場に、くえん山といっ
て大昔から地すべりの絶えたこ とのない山があり、そのつど河川が移動して地元民は山の下の光池のたたりだと恐れたと伝えら れたがこの程砂防工事でその心配
もなく花見時は賑うという。
馬場、川上は八代村時代の行政の中心地だけあって、かつて村長に川上の山口蔵右衛 門氏、 馬場の杉尾明氏(両氏共故人)など輩出している。現在の両地区
の経済基盤は、約八割が農業で、 普通作を中心に、ハウス栽培、畜産、タバコ、みかんなどであるが、専業農家は一割と聞く。
(『のこしておきたいむかしのあれこれ』国富町教育委員会平成18年3月 p287)
八代城址(やつしろじようし)山城96m(40m)
東県郡八代村南俣にあり。〔日向地誌〕 三面迫田を帯び、壁立十二、三丈、西北一面は平原に連る、城画して四区となる、東なるを本丸と云、其嶺広三段、其西北なるを
二の丸と云、其嶺広凡一段、其次なるは広凡一段、叉其次なるは取添と云ふ、広凡三段五畝余、其間皆壕隍を通ず、幅四間余、叉本丸の東腹一段低き処一郭あり、中ノ城と
云、広五段許、創築の年月詳ならず、日向記を按ずるに元弘、建武の頃日向国中にても官方、将軍方と二派に相分れし時、伊東氏の支族伊東藤内左衛門祐広は、八代城に
拠て官方に応じ、建武二年乙亥十二月二十四日、足利尊氏の領せし穆佐城を攻取て之に拠る、同二十九日将軍方の将土持宣栄穆佐城を攻む、祐広敗走して八代城を保つ、
延元元年丙子正月二十三日、宣栄叉進て八代城を攻む、祐広城を棄て猪野見城に走る、宣栄即時に馳向ひ之を攻むれども利なふして引退く、二十九日宣栄重ねて大勢を催
し、猪野見城を囲み、二十九日まで攻れども、城兵強ふして城抜けざれば,叉復空く引退く、(延元四年正月三日、祐広は猪野見城に戦死す)其後八代城は伊東氏相尋で之を
領し、南北朝の末年には、伊東氏の支族八代某此に居りけるが、伊東氏に恭順ならざりければ、東祐安之を逐ふて自ら八代城に居る。永享六年甲寅三月五日、祐安八代城
に卒す、祐安世にありし時、第二子祐輿に八代を譲り与えければ、遂に八代を氏とし数世此に居る、廃毀の年月詳ならず。城址には祐広孤忠の記念碑がある。

学校からバス道路を東に下り、途中八代城址の案内板を右にあがると八代城址に行きます。入り口りからおよそ3分で城跡に着きます。

昭和10年(1935)に建立された伊東祐広公の記念碑
■伝説の坂道
『三国名勝図絵』の和泉式部法華嶽参籠(さんろう)に由来する坂道が旧八代村今平にある。式部が六野原から今平へおりた坂道を「車返し坂」といい、ここをおりると
阿弥陀堂がある。図絵には式部が休息
して車を返した所ともある。この坂道は、地区の伝説では「籠おり坂」ともいう。昔からこの坂道で馬から落ちたり、歩行者がつまづき倒れると必ず重い病気にかかるといっ
て、別に「駒らじ坂」とも言い伝えている。
ここから、三名川を渡って一、二キロ。川上原の東端八代城の南側の登り口あたりを「取添の坂」といい、式部に杖を与えた所と伝えている。ここを登りつめた集落に「取
添え」の地名が残っている。
寛政四年(1792年)六月、高山彦九郎が肥後から米良を経て法華嶽への道中日記に、『都於郡町より一里(約四キロ)坤(ひつじさる)(南西)の方へ来て六野の茶屋ここ
は高鍋領なり。人家を出て右細道へ入る。坤の方高い丘の見ゆる三里あたりに法華嶽見ゆ。平たい畑を歩くこと一里ばかり。
ここをおりると今平光孝寺という禅寺あり門前(もんぜ)という。川を渡って坂を登る八代の馬場といって道広し、これより法華嶽まで一里半永田の川を渡り歩き続けて市
の瀬へ是より二十町(約二キロ)法華嶽なり。』
島津義弘公関ヶ原敗戦の帰路、わずかの供と八代を発ち、一丁田、仮屋原、八幡を経て嵐の宮の川を渡り岩坂へ。お供の先駆け武将は久保町の黒木三郎方へ一宿し
て、そのお礼をし証しとして武具一つを置いて発った。というゆかりの言い伝えがある。この通過路は砂土原方面から八代、本庄への一幹線で、久保町弁天宮から西へ表
新町と十日町旧道から八代街道への横馬場通りが合流する辺りが、江戸時代からのメインストリートで、かって盛んであった十日町市はこの三叉路辺りが最も賑わった。
■郷土街道と歴史
平安時代後期の九九八年ごろ、京都で天然痘がはやり、多くの死者が出た。和泉式部が、「式部日記」を完成したのが寛弘元年(1004年)とあるので、式部の発病はこ
れより後と考えられる。
越後の米山薬師、三河の鳳来(ほうらい)寺を参ったあと、日向の法華嶽へ向かったのだが、式部は、一体どういった道をたどったのだろうか。おそらく舟便で細島か高
鍋へ着いた後、当時の官道を国府西都へ向かい、ここから都於郡(とのこおり)を経て六野原へ。さらに西へ進み、今平の「籠(かご)おり坂」を下ったものだろう。そして、
門前の川を渡り、同地区に伝わる「取添えの坂」を登って八代馬場へ。そこから永田へ下り、高田原台地を越え、愛染川を渡って目的の法華嶽薬師寺へたどり着いたも
のと考えられる。これは、偶然にも、寛政時代に法華嶽を訪れた、尊皇家・高山彦九郎の「日向歴遊」の記録と一致する。
彦九郎は、法華嶽から須志田へ下り、飯盛を経て十日町へ出ている。彦九郎日記の中に「十日町、家百軒余。五、六丁(550〜650メートル)東に六日町あり。大街道な
」と、当時の様子を紹介してる。しかし、天領のためか、宿に泊まることは避けたようだ。その後、彦九郎は嵐田へ抜け、高岡を通り、去川の関所を避けて舟便で宮崎へ入
る。
この時代から二十年後、伊能忠敬一行が地図作成のため、日向にも来ているが、そのとき、六日町の庄屋・岩切彦兵衛宅を宿とし、一泊したのち、六野原から佐土原
へ向かっている。
町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より
※ 秋月藩は、福岡藩の支藩で、元和9年(1623年)黒田長政の三男長興が福岡藩52万石から5万石を分知され、立藩しました。

『宮崎の街道』宮崎県教職員互助会 から作成
■ 米良の庄から籾木へ 『残しておきたい 昔のあれこれ』から 国富町教育委員会 p294
国富の北境掃部岳(かもんだけ)に源を発する深年川、掃部岳系鏡山に発するのが三名川。この川を遡(さかのぼ)っておよそ十キロの地海抜百メートル、北西
は九州山脈の一部である重畳(ちょうじょう)たる山並に包まれているが東南は、薩摩原の大平原が展開する山麓の地区が籾木である。籾木を語るには何をおいて
も「籾木どん」を語らねばならない。戦争前まででもあったろうか方一丁の築塀と九尺二枚の大扉のある武家門の豪荘な武家屋敷で地区では殿との敬称を奉ってい
た一豪族であろう。元籾木家の屋敷内にあった氏神の標札や菩提寺であった阿弥陀堂(西明寺)の供養塔に刻まれた年代に天正(室町末期1573〜)安土桃山1
582〜)、慶長(豊臣前期1596〜1614)の刻宇がみられる。
これらの刻字に施主の米良平右衛門天氏とあるが、この人が肥後菊池に連なる米良荘の藩主菊池氏の末裔(まつえい)であろう。
今よりおよそ六百年前。南北朝末肥後菊池の末裔とそれに連なる人々は南北朝戦乱期が終わる頃から、米が年貢をはじめ経済の主流となった頃諸国はあげて開
拓開田の風潮が高まり、そうした社会の背景は山を頼って米良入りした一族にも異変をあたえ、米良平右門氏を頭首に米良、甲斐、河野、中武の支流は籾木へ、ま
たその一部は法華獄、綾へさらに南米良の庄へ一部の人々は須木へと開拓の新天地を求めて南下したのでした。
籾木の姓がいつどうして冠せられたか定かではないが、この時代その土地着任したり戦利上奪取した土地の地名を我が姓にしたのはごく当然な時代で、本庄地方
では、大脇、太田原、宮王丸、嵐田、須志田、八代等々がある。こうして地区は籾木家を中心に一族郎党は一朝事あらば籾木家のホラ貝の音に相集い相議して外に
当たり内に助けて自給自足して、桃源の泰平に徳川三百年の歳月を平和裡に過ごしたのであろう。
伝統文化(地域に残る伝統文化)
■ 花祭り(伊左生 地蔵寺) 旧暦4月8日2008年は5月12日
昔から続いている伝統的な行事です。地区の方が甘茶を入れる容器を持参し、お寺の方に入れてもらいます。
お釈迦様の像にひしゃくで甘茶をかけます。
地蔵寺について
1500年代、伊左生城は伊東氏の一族である伊東又二郎が守っていました。又二郎は、1572年木崎原での島津氏との決戦に敗れて死にました。又二郎と、一緒
に戦って死んだ人たちは、小林市内の墓地に葬られましたが、後になって供養のためこの地蔵寺に六地蔵と十三仏がつくられました。
(『ふるさとのみち 宮崎の街道』P270 宮崎県教職員互助会)
古いもの
★ 馬頭観音(切畑) ★ 干害記念碑(切畑)

★ 御大師様

北俣地区
★ 石碑

「八代南俣」「大正」「牛馬」・・・が読み取れます。(栗巣)
馬場は、八代城の時代に侍が乗馬の練習をしたところと言う記録があります。 拡大できます(天保11年1840年) 馬場
★秋葉様(馬場地区)
昔火災が続いたということで、防火を祈願して建てられました。

★ 森田の五輪の塔
森田(守田)には、島津藩時代に諏訪神社がありました。その頃の遺跡でしょうか。

神社
川上神社
秋の大祭は、11月9日(日)に行われます。伊勢音頭が奉納されます。

川上にある川上神社
伊勢音頭の由来(川上地区郷土芸能 伊勢音頭保存会)
| 川上地区郷土芸能・伊勢音頭は、史的には定かでないが、代々古老の言い伝えるところによれば、この踊りの起源は、享保年間(ハ代将軍徳川吉宗の頃)、当時全国に大流行した「おかげ参り」で伊勢神宮参拝に地元から参加した一村人が、当時伊勢地方を中心にはやっていた、伊勢音頭の踊りを習得して帰り、地元に古来から伝承されていた捧踊りを一 部取り入れて、新たに振り付けしたものが、「川上地区郷土芸能・伊勢音頭』として二百七十年余りの今日まで、保存会により継承されているものである。踊りは、出端、本踊りヽ引端の三部から成り、優雅なる出端で始まりヽ続いて四名一組で木剣をもちいて前後左右に乱舞する勇壮な本踊りとなり、最後に華麗なる引端で終わる独特の踊りである, 三味線、太鼓、拍子木に合わせてかもし出す、変幻自在の舞いの美しさが見もので例年、川上神社の秋の大祭に奉納される。 伊勢にャ〜あァ〜七度 熊野にャ〜三度 ヨイトヨイトオ あたご〜ナァ〜さま〜に〜は〜 ヤ〜レー三度 月〜参り イヤして こりヤこりヤ〜やッとこ せ〜のオ〜よ〜いやアナ〜 あれはいセ イャこれはのセ〜 セ〜さ〜な〜んでも〜セ〜 見たか〜見て来た〜か 大阪のォ〜城を ヨイトヨイトォ 前〜は〜ナァ〜淀〜〜川〜ァ〜 ヤ〜レ三度 船〜つなぐ イャして こりャこりャ〜やツとこ せ〜のオ〜よ〜いやアナ〜 あれはいセ イャこれはのセ〜 セ〜さ〜な〜んでも〜セ〜 平成七年十一月吉日 |
川上神社大祭 平成20年11月9日(日)
あいにくの雨でしたが、朝9時から神事が行われました。その後、中学校の体育館で郷土芸能が行われ、楽しいひとときを過ごしました。

厳かに神事 獅子舞い(ししまい) 奉納 6年生4名による浦安の舞い
保存会の方々の舞いの途中に、川上神社の宮司さんや、踊りを知っている地区の方も飛び入りです。

大変優雅な踊りです。平成21年11月8日(日) 中学生、小学生、幼児も混じっておどります。

三味線、太鼓、拍子木の方々(三味線は、地区内に2〜3人まだ弾く方が居られます)
小学生も校歌を出し物
最後は餞具まき
| 八代地区の伝統芸能について(宮司さんのお話) 今は川上神社の伊勢音頭しか残っていません。しかし、昔は各集落に伝統芸能が残っていたそうです。 大坪(棒踊り)井水(女性方の踊り)門前(棒と鎌の踊り)中別府(俵踊り) |
諏訪神社 諏訪神社の歴史(伊左生地区の方のたより)
字若宮(北俣)にある古い神社です。三名川沿いの地区からの信奉が厚く、8月最終土・日(平成21年は、8月29,30日)の大祭にはたくさんの人が参拝に訪れます。

諏訪神社大祭の様子 平成21年8月29,30日(土日)
大祭当日は、神事と女子による浦安の舞に続いて、バラ踊りが奉納されます。バラ踊りには、大人14人、小中学生それぞれ14,7人が参加しました。
毎年、盆前後から地区で練習をしています。踊りはおよそ40分ほど続きます。鉦をたたく大人4名の音頭により舞います。バラ踊りは、2日目の14:00からも舞われます。
○ 神事 11:00〜
今年は、4年生1、6年生3人が舞いました。
拝殿の扉を開け(開扉)て捧げ物をし、参加者による玉串奉奠のあと、女子4人による浦安の舞が行われ、神事を終えます。
○ 保存会、小中学校生によるバラ太鼓踊り 12:00〜

勇壮な踊りが続きます。 途中で水分補給を受ける小学生
○ 北俣保育園児による和太鼓披露
八代小学校区唯一の保育園児達の出し物です。
| バラ太鼓踊り(例祭配布物から) お諏訪 一 ああ お諏訪に参りて みてみれば ああ四方泉あらみごと 二 ああ 東の表を みてみれば ああ杉に芭蕉芝に 川菖蒲 三 ああ 南の表を みてみれば ああ 黄金の鳥居が建ったよな |

夏と秋に祭りがあります。秋の大祭は11月14日となっていますが、最近は日曜日に行います。
昔は、ヨイマカや子ども奉納相撲などが行われていました。
国富町内の歴者文化財

![]()