| ●校章 |
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<由来>
旧本庄は、国富彦と称する命(みこと)の都で、昔より文化が盛んであった。このような古今の本庄文化を知っているのが、本庄稲荷神社の境内にあるいちいがしである。この樹が本庄文化の代表のようにいわれることから、戦後の学制改革当時の男女共学の理念を表して、2枚のいちいがしの葉で「高」の字を包み、陽の映える平和な文化の学園が学生諸士とともに、とこしえに続くようにという意味を図案化して作成されたものである。(昭和23年 関屋文彦先生作) |
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| ●校訓 |
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築け |
古から栄えた国富の歴史に思いをいたし、恒久の平和と、豊かで住みよい世界を構築していく気概をもって学業に専念しよう。 |
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拓け |
樹齢数百年のいちいがしが見守ってきた優れた郷土の文化と伝統に誇りを持ち、未来に目を向け、新しい時代の文化を切り拓いていこう。 |
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照らせ |
悠久の大淀の流れや気高い霧島の峰を心の糧とし、真理を愛し、理想を高く揚げて、絶えず自ら学ぶ意欲に満ちた人間として成長しよう。 |
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| ●歴史 |
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大正 2年 3月 |
東諸県郡立乙種農学校設立許可 |
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大正12年 3月 |
本庄町の現在校舎位置に移転 |
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大正12年 4月 |
県に移管せられ宮崎県本庄農学校と改称 |
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昭和 3年 4月 |
宮崎県立本庄農学校と改称 |
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昭和17年 4月 |
甲種農学校に昇格 |
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昭和23年 4月 |
学制改革により宮崎県立本庄高等学校と改称
全日制 普通科 100名 農業科 40名
定時制 普通科 40名 被服科 40名
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昭和23年11月 |
定時制高岡分校、定時制綾分校を開設 |
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昭和25年 4月 |
課程変更及び学科改編全日制普通科廃止 農産製造科・被服科設置
全日制 農業科 80名 農産製造科 40名 被服科 40名
定時制 農業科 40名 家庭科 40名
定時制八代分校開設 |
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昭和27年 4月 |
課程変更及び学科改編全日制普通科設置
全日制 普通科 50名 農業科 40名 農産製造科 40名 被服科 40名
定時制 農業科 20名 家庭科 20名 |
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昭和27年 4月 |
学科名一部変更 被服科を家庭科に変更 |
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昭和27年 5月 |
高岡分校に全日制家庭科を加え高岡校舎となる |
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昭和38年 3月 |
八代分校廃止 |
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昭和39年 4月 |
高岡校舎定時制募集停止 |
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昭和42年 3月 |
綾分校生徒募集停止 |
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昭和48年 4月 |
定時制募集停止 |
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昭和50年 4月 |
学科名一部変更 農産製造科を食品製造科に変更 |
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昭和51年 3月 |
定時制課程募集停止 |
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昭和56年 4月 |
高岡校舎生徒募集停止 |
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昭和58年 3月 |
高岡校舎廃止 |
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平成 3年 4月 |
学科改編 農業科・食品製造科・家庭科の募集停止
総合選択制普通科6学級定員240名に改編 |
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平成 5年11月 |
創立80周年記念式典挙行 |
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平成13年 4月 |
学科改編 総合選択制普通科6学級定員240名の募集停止
総合学科5学級200名を募集 |
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平成16年 4月 |
総合学科1学年160名募集(1学級減) |
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| ●校歌 |
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日高重孝 作詞
下総皖一 作曲
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神原の 称え久しく
栄え来し 国富の庄
その永き 平和の基
諸共に 築け吾友 |
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いちいがし 常磐堅磐に
書き伝う 筆塚の跡
その茂き 文化の林
諸共に 拓け吾友 |
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大淀の 流れ豊かに
見はるかす 霧島の峰
その高き 理想の光
諸共に 照らせ吾友 |
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| ●キャンパス案内 |
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| 正門 |
校訓碑 |
玄関 |
中庭 |
校門全景 |
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| 中庭 |
行幸碑 |
中庭 |
本庄川 |
校歌碑 |
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| ●地図・経路 |
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