1 本校の歴史 四家地区は,南北約10km,東西約4kmの長方形の高城町の北端に位置し, 高城町行政区の18区,19区,20区にあたる。南北に流れる県下随一の河川, 大淀川を挟み,上流を高崎町,下流を野尻町,高岡町に隣接している。 四家という地名がついた一つの説として,源平合戦により都を追われた平家 の姫「八重姫」が源氏の追従をのがれ,隠れた場所に自分の名を付けていった という説から始まり,平家末裔が4家あることから「四家」と呼んだという説が有 力である。幕末の『御道中記』にも,「ここに○○○○四家あり,往古源平兵乱の おり,平氏落人にて此の地に居住し始め由,依って四ヶ村と言伝う」とされている。 中世の山城としてつくられたとされる井之城跡,伊東氏と島津氏との攻防にも登 場する平八重城跡も見つかるなど歴史を感じさせる地区である。江戸時代には, 四家村狩倉から白土・アンチモニが出産され,四家鉱山と呼ばれた。明治のはじ めの西南戦争時には西郷軍により盛んに掘られ,昭和の日中戦争・太平洋戦争 の戦時経済体制に移行するとその必要量は増え,国も出資し帝国開発株式会社 が採掘を開始した。戦後, 全国の3分の1を生産していたが,現在は閉山され, 地名だけが残っている。 |
2 学校区の概要 |
本地区は,高城町内の北部に位置し,自然環境豊かな地である。産業の中心 が農業であり, たばこ・大根等の生産が行われている。中学校の近くには,産業 廃棄物処理施設が建設される予定で,既に工事が始められている。そのため, 交通量が多く,大型トラックの通行も多い。 本校は,昭和37年の生徒数217名を最後に年々生徒数が減少し,平成14年 度から複式学級が始まり現在に至る。地区の人口も減少し,少子高齢化が進んで いる。 保護者は,農業・自営業が多い。学校の教育活動に対する理解があり,大変協 力的である。PTA活動等は,非常に積極的で,特に学校行事には,保護者のみな らず,地域の方まで一緒に取り組む。 |
3 生徒の実態の概要 |
本校生徒は,四家小学校1校からの卒業生で構成されている。小学校から複式 学級を経験しているため,大変仲がよい。生活面でも,挨拶や言葉遣いが良く,基 本的な生活習慣もついている。しかし,人数が少ない環境で過ごしているため,大 勢の前に出ると萎縮したり,自分の考えを堂々といえない面がある。また,穏やか で優しい性格の生徒が多いため,他人と切磋琢磨しながら自分を伸ばそうとする 意欲には乏しい面がある。学習面では,授業に対して真剣に取り組むが,学習訓 練が十分でなく,「読む,書く,聞く,計算する」などの学習の基礎となる知識や技 能の定着が十分でない生徒もいるため学力差が大きい。そのため,基礎学力の 定着を図りながら,全体の水準を一定レベルに引き上げつつ,個に応じた指導の 工夫・改善が急務である。 |