開商の碑は、漢文で書かれてあり何が書いてあるかわかりませんでした。そのとなりに、平成5年3月に元福瀬小校長甲斐重房先生が訳されたものがあったのでそれを写してみると次のようなことが書いてありました。

わたくしたち福瀬の土地は山間僻遠にある一集落なればただ木炭に頼りて生活するなり、ゆえにこのなりわいの盛衰は村人の浮沈に関す、なのにそのころ悪がしこい商人は、うまくいいくるめてことごとく利益を一人占めにし、村人の苦しみは長く続いていた。それで、この村の貧しさはまさにどん底におちいろうとしていた。よって「田辺清吉翁」はいきどおり自分に言い聞かせた悪いやつが利益を一人占めにし、村人を苦しめいる。今ここで救済の策を施さなければわたしたちの村人はどうなるのだろうか。日夜苦心し考えぬいて、ついに一策を得て村人に示したが、村人たちは悪く言ったり疑ったりしてみんなの意見はまとまらなかった。しかれども、翁毅然として自分の考えをひるがえすことはなく、しばしは「川越利吉」「新名虎吉」「直野喜長」「新名光治」「直野儀平」「小林茂太郎」「直野岩之助」「川越繁吉」「新名六平」「川越清六」「高尾鹿吉」「塩月猪之治」「岩本松五郎」「金丸権次郎」「海野伊平」らと審議してやめなかった。村中は苦のその至誠に感じ入りこれに賛成し、翁および川越利吉を推してそのことをつかさどらしめた。この二人は大阪に行き阿波屋商店山崎栄次郎と相談し、直接売り買いをする契約を結んで帰ったのだが明治十六年八月なり。 よって一社を創設したのがいわゆる「福瀬商社」である。これにより村中の物産がことごとく商社に集まり大阪の商人と直接取引きするので利潤は十倍に増え、この村は苦の様子とはすっかりかわり村人は互いに慶び言いました。 翁の策はみごとに当たった。さきに疑ったりした者、悪くいった者までみんな翁の徳を喜んだ。 明治二十五年行政官はその功を賞して木杯一組を賜う いわくああ翁のしたことは偉いことだといまや村人は相談して翁の苦労を永久に伝えたいものだと願いこわれて記すことになった自分はたまたまその郷の校長をうけていて翁の至誠を知ることとなったので記す。
明治三十五年一月 校長 杉田雅一
つまり、昔福瀬の人々が炭を作っていたころ、美々津の船問屋と契約を結んでいたところ、なかなか利益を得ることができずに苦しい毎日を送っていた。そこで、田辺清吉さんという人が出てきて、「どうにかして福瀬を豊かにしよう」として一生懸命考え、大阪の商人と直接契約を結ぼうと考えた。しかし、福瀬の人々ははじめ反対した。けれど清吉さんはあきらめず人々を説得し、みんなに納得させ、この考えを実行した。すると福瀬の人々は、豊かになって、田辺清吉さんのすばらしい行動をたたえるようになった。ということのようです。
これを調べているうちに、田辺清吉さんについてもう少し詳しく調べてみました。
「東郷町史」という本に次のようなことが書かれてありました。
田辺清吉さんは、天保三年{1832年}四月に福瀬に生まれた。江戸時代の終わりごろのころから長い間福瀬地区の作る木炭は美々津の問屋を通していては、あまり利益がもらえない状態でした。この様子をとても残念に思った清吉さんは将来のことを考え、なにかをしようと思い、一生懸命考え、大阪と直接、炭を取引しよう、と思い、村の人を説得しました。しかし、村の人々は、だまされるんじゃないか、そうしても同じじゃないかと言って、初めは聞き入れてもらえませんでした。けど、田辺清吉さんはあきらめず、各組合に仲間をつくり一生懸命説得しました。そして、明治十六年八月福瀬に「福瀬商社」をつくりました。そのため村は豊かになり福瀬の人々から清吉さんは尊敬されるようになりました。そして、明治三十五年になくなりました。 
私は、田辺清吉さんについて調べみんなに直接炭を売るのはいやだと反対されてもみんなをあきらめず説得したり「福瀬商社」をつくったりととてもすごいことばかりしていビックリしました。それに、いろんなことを考え各組合から仲間をつくったりみんなのためにがんばって苦しまないようにと村のためにもがんばっていました。私も、いつか清吉さんのようにふるさとを大切にする人になりたいと思いました。