つまり、昔福瀬の人々が炭を作っていたころ、美々津の船問屋と契約を結んでいたところ、なかなか利益を得ることができずに苦しい毎日を送っていた。そこで、田辺清吉さんという人が出てきて、「どうにかして福瀬を豊かにしよう」として一生懸命考え、大阪の商人と直接契約を結ぼうと考えた。しかし、福瀬の人々ははじめ反対した。けれど清吉さんはあきらめず人々を説得し、みんなに納得させ、この考えを実行した。すると福瀬の人々は、豊かになって、田辺清吉さんのすばらしい行動をたたえるようになった。ということのようです。 |
|
これを調べているうちに、田辺清吉さんについてもう少し詳しく調べてみました。
「東郷町史」という本に次のようなことが書かれてありました。 |
|
|
田辺清吉さんは、天保三年{1832年}四月に福瀬に生まれた。江戸時代の終わりごろのころから長い間福瀬地区の作る木炭は美々津の問屋を通していては、あまり利益がもらえない状態でした。この様子をとても残念に思った清吉さんは将来のことを考え、なにかをしようと思い、一生懸命考え、大阪と直接、炭を取引しよう、と思い、村の人を説得しました。しかし、村の人々は、だまされるんじゃないか、そうしても同じじゃないかと言って、初めは聞き入れてもらえませんでした。けど、田辺清吉さんはあきらめず、各組合に仲間をつくり一生懸命説得しました。そして、明治十六年八月福瀬に「福瀬商社」をつくりました。そのため村は豊かになり福瀬の人々から清吉さんは尊敬されるようになりました。そして、明治三十五年になくなりました。 |
|
|
|
私は、田辺清吉さんについて調べみんなに直接炭を売るのはいやだと反対されてもみんなをあきらめず説得したり「福瀬商社」をつくったりととてもすごいことばかりしていビックリしました。それに、いろんなことを考え各組合から仲間をつくったりみんなのためにがんばって苦しまないようにと村のためにもがんばっていました。私も、いつか清吉さんのようにふるさとを大切にする人になりたいと思いました。 |