みやざきひむか学
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どんな人だったんだろう
大淀川架橋

 30年ぶりに東京へ行き、明治維新後の東京の変化に驚いた邦成は、明治6年(1873)、大淀川に架かる大橋に胸躍らせて帰郷しました。

  しかし、「未だ大淀川架橋実現せず」との事実を知った邦成の失望と驚きは、「橘架設条約書之草案」に記された『帰県の日忽然(こつぜん)として胸中に思想を発し、以上記す所の事(架橋計画挫折の事)を聞き、慨嘆(ひどい状態を今のうちになんとかせねばと憤慨すること)するに堪えず』にあらわれています。

 文明開化した東京を見聞してきた邦成にとって、未(いま)だ渡舟(わたしぶね)の大淀川、街づくりの進まぬ宮崎は、信じ難い光景でありました。
 邦成は、宮崎の近代化は大淀川に橋を架けることであるとして、私費でこれに取り組んだのでした。莫大な費用がかかりました。何度も失敗し、中傷もありましたが、それにもめげず、努力を重ね、橘橋架橋を行ったのです。

宮崎の近代化に貢献

 邦成は、誇り高き人物でもありました。その邦成が、幾度も鹿児島県庁に頭を下げ、架橋許可を得て、何千万もの赤字を出して橘橋を架設し、その後も大淀川の水量の調査を続けるなど、橘橋架橋に向けて献身的な努力を行いました。それ以外にも、牛痘接種、医学所「宮崎医院」設立、蒸気船による日向航路開設など数多くありますが、どれも公益につながる事業であったのです。
 邦成は、新しい時代が始まろうとする時期に、公共事業として行政が行うべきことに個人で取り組みました。邦成の数多くの業績は宮崎県配置後の宮崎の近代化に大きく貢献しました。


 
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