みやざきひむか学
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どんな人だったんだろう


空飛ぶ夢を見る少年

 明治36年(1903)の12月には、アメリカでライト兄弟が、人類最初の飛行に成功しています。その頃、小学生だった勇吉にとっては、「遠い国の話」であったことでしょう。
 勇吉は紙飛行機をつくったり、冬には凧(たこ)をあげ、七夕飾りで「天の川」の星物語に親しみ、空を飛びたいと夢見ていた少年でした。
        

機械好きの中学生

 中学時代から「機械いじり」が大好きで、ブリキ製ですが、蒸気機関付(じょうききかんつき)の精米機(せいまいき)をつくりあげ、「機械いじりの好きな勇ちゃん」の名が広がりました。

 勇吉は、自動車の修理、整備や自転車の組み立ての手伝いをし、エンジンの研究、自転車の構造の勉強をしました。
 古い自転車の両側に、フロートをつけて、ペダルを踏み、水上を走るという「水上自転車」をつくり、五ヶ瀬川へ運んでテストをしました。
 また、竹を削(けず)って骨組にし、木綿布(もめんふ)で翼(つばさ)を張った約1.8メートルの大きさの模型飛行機を製作したりもしました。

*フロート:水上飛行機の脚部についている浮き船

研究と努力

 19歳の頃、飛行機へのあこがれを抱(いだ)きながら東京へ行き、自動車会社で無給の工員として、朝早くから夜遅くまで働きました。手のひら一面に豆が出来るほどでしたが、そんな苦労はなんのその、自動車の構造、エンジンの整備に取り組むうち、勇吉の飛行機への情熱は一層深まっていったのです。

 翌年、飛行家・白戸栄之助氏の助手となり、水上飛行機を共同製作しています。
21歳で東京からふるさと延岡に帰郷した勇吉は、水上飛行機「巌(いわお)号」を持ち帰り、飛行家志望者のあこがれの的となっていました。親友の協力もあり、飛ぶ練習に打ち込みました。フロートを取り替えたり、操縦の工夫をしたりするなど、試行錯誤の末、やっと18.1メートルほど飛びあがり、勇吉は初めて空を飛ぶ夢を実現させたのです。

 失敗しても失敗してもあきらめず、工夫をし、「挑戦する精神」の持ち主だったのです。

自分の夢に命をかけて

 昭和2年(1927)6月23日、太平洋横断飛行の計画が発表され、全国民の話題となっていた頃、勇吉は飛行士の友人に次のように語ったそうです。
 「もし、横断飛行の操縦士として採用されれば、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)にあっても、必ずやりとげる決心です。現在の太平洋横断飛行には多分の危険性がある。だから、犠牲の精神がなくては、太平洋横断飛行の成功はおぼつかない。人間の一生というものを考えてみると、50年も一生、30年も一生。要は、生き甲斐があったかどうかが、点のつけどころだ。」


 
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