みやざきひむか学
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どんな人だったんだろう


生誕地 くぼえんひろばの写真 勉学と武術に励む

 兼寛は幼名を藤四郎といい、勉強好きな子どもでした。7歳の頃から、四書五経を学びはじめ、朝だけでなく、夕方からの年長者の勉強にも加わりました。また、その頃から、勉強だけでなく、父の大工仕事の手伝いもしていました。
 9歳の頃から、薩摩の剣法である示現(じげん)流を習いました。この剣法を習ったことで、藤四郎の体はみるみるたくましくなっていきました。
 また、当時の穆佐村には黒木了輔という医師がおり、貧富の別なく人々のために尽くし、村人から尊敬されていました。その黒木医師にあこがれていた藤四郎は医者になりたいという思いを強く抱くようになっていきました。


西洋医学への道

 念願がかなって、17歳のとき、鹿児島の蘭方医である石神良策のもとで医学を学ぶことになりました。
 明治元年(1867)、戊辰の役が起こり、兼寛は石神良策とともに参戦しました。翌年、藩立の鹿児島医学校が開設され、兼寛は医学の勉強をもう一度やり直すため入学することにしました。ここで、校長のウイルスにその非凡な才能を認められた兼寛は、西洋医学を学ぶためにイギリス留学を勧められ、ひとまず、海軍省に入ってそこからイギリスへの留学を目指すことにしました。
 明治8年(1875)、兼寛はイギリスの留学先、セント・トーマス病院医学校に入学しました。
 イギリスでは、まず貧しい病人のための病院で働く医者を育てることが重要であるとされ、そのため教育の内容は実際的な「病院医学」で、ドイツを中心とした「研究室医学」とは、基本的に違っていました。また、当時、ナイチンゲールは、貧しい病人を救済するため「ナイチンゲール病棟」を建設したり、看護婦の養成に献身的な努力を傾けたりしていました。こうしたことが、兼寛の生き方に多大の影響を与えたことは間違いないようです。
 また、5年間の留学中に母や4歳になる娘が亡くなるという悲しい出来事もありました。明治13年(1880)、11月に帰国しました。




 明治時代、日本の海軍では軍艦乗組員の中に脚気(かっけ)患者が続出していました。海軍軍医だった兼寛は、英国と日本の食事を比較して、英国では、日本よりはるかに多くのタンパク質(パン、肉)をとっているからではないかと考えました。そこで、艦船、兵営、学校を訪ね、山盛りの「銀めし」と塩辛い「たくあん」を見た兼寛は思ったのです。「白米のような炭水化物を多くとりすぎ、タンパク質が不足するためにおこる病気である。すなわち食事の栄養欠陥から脚気がおこる。」と。軍艦筑波 イメージそして、「兵食改善」による脚気の予防航海実験でそれを実証しようとしたのでした。

 海軍食(兵食)を、パン、肉類を取り入れた食事内容の改善に取り組んだのです。しかし、当時は脚気の原因が食べ物にあるとは誰も考えず、空気中のウイルスによってうつると考えられていました。そのため、兼寛の考えに反対する人が多く、証明することがとてもたいへんでした。伊藤博文への猛烈な働きかけによって、ようやく実験航海が許され、兵食を改善した軍艦筑波から送られてきた電報は「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。

 その後も、兼寛を無視したり、パンを捨てる者もいたりして、船にかもめが住みついているような光景が見られるこ探究心の強いかねひろともあったそうです。しかし、それに屈することなく、パンの代わりに麦飯と白米を混ぜるなど工夫し、これ以来、海軍兵の脚気がなくなりました。
 このことが、脚気はビタミンB1が欠乏して起こるという学説の先駆となったのです。

写真 たかぎかねひろ銅像「病気を診ずして病人を診よ」医の心をもつ医師の養成

 兼寛は、研究のための医学ではなく、実際に目の前の患者を治す能力のある医師を養成したいと強く願っていました。
 病気に苦しむ人を救済する施設を作ることが社会の義務だ。人間が何より苦しいのは貧乏の上に病気になることだ。これを救わねば社会の発展はあり得ない。そのためには、どうしても施療病院を作らねばならないと考え、貧しい人でも治療が受けられる病院を設立しました。そこで、兼寛が情熱をもって実践したことは、他人をいとおしむ心は、精神的に自立した人間でなければ十分に成熟しない。医師が対応するのは『意識』をもった病める人間である。医師たる者は、病人の痛みがわかる、温かい心をもった人間でなければならないという考え方でした。
  「病気を診ずして病人を診よ」という言葉にはこのような意味があります。

 病人の側に立つ全人的医療こそ、時代を超えて医師がなすべき使命だとして医の心をもつ医師の養成を行ったのです。

 

講演行脚

 『国民の体位向上を図るため、大正元年頃から、全国の学校で、保健・衛生の講演行脚を1388回、聴衆者67万6512人に及び、後年は日本古来の文化として武士道精神を説きました。
兼寛の武士道精神とは、
 1、自律心(自分で決めたことは名誉をかけて守る)
 2、正直(嘘は言わない、約束は命を賭けて守る)
 3、淡泊(私に奉ぜず、公に奉ずる)
 4、慈悲心(弱い者いじめをしない。敵に対して情を持つ)ということでありました。』

(『宮崎の偉人(上)』佐藤一一著 鉱脈社より)



 
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