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どんなことをした人なんだろう

写真 たかぎかねひろはじめに

 明治13年(1880)、高木兼寛が留学先のイギリスから帰国すると、我が国では脚気(かっけ)にかかる海軍将兵の割合が常に30%近くであるという状況があり、脚気の予防と治療は急務でした。
 こうした中で、高木兼寛が確立した予防法は、近代医学の発展に大きく貢献したのです。

かつけ ビタミンB1の欠乏によりおこる。かっけになると、筋肉の力が弱くなり、心臓がはれ、足がけいれんし、ひどいときは心不全をおこして死亡する。


ビタミン発見の先駆者

 明治時代、難病といわれた脚気から人々を救うために行った兼寛の予防法は、それまでの白米のご飯に麦を半分ずつ混ぜ、タンパク質を多くとるようにするものでした。

 この予防法は、後に、そのタンパク質に含まれている栄養素が「ビタミン」であることが発見され、兼寛は、ビタミン発見の先駆者として大きく貢献したのでした。

ビタミン 栄養素の一つ。普通、人間や動物の体内では作られないので、体外から接種しなければならない。不足すると特有の欠乏症状が出てくる。

成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)の設立
写真 成医会講習所第1期生
 明治14年(1881)、研究のために医学を修めるのではなく、実際に患者を治す能力のある医師を養成するための学校をつくりました。東京の銀座4丁目に講習所跡の記念碑があります。兼寛らが教員で、講習所での教育はかなり厳格で、最初100人ほどいた講習生も、勉強が進むに従って少しずつ減り、一年後には20名ばかりに減っていたそうです。それだけ厳しい試練に耐えてこそ、病人に相対する医者になれるという兼寛の考えがありました。明治18年(1885)、第1回生の卒業生7名を世に出しました。


有志共立東京病院(東京慈恵会医科大学の前身)の設立

 明治15年(1882)、兼寛は、医学の研究だけでなく、貧しい人でも誰もが治療を受けることができる施療病院(有志共立東京病院)を設立しました。博愛精神のもとに寄付を集めてつくりました。
 明治20年(1887)、東京慈恵医院と改称され、明治40年(1907)現在の東京慈恵会病院と改称されました。
 兼寛の言葉にある「病気を診(み)ずして病人を診(み)よ」という精神は、徹底して患者中心の病棟をつくろうとしたナイチンゲールの精神と全く同じで、この病院にはその精神が脈々と流れています。

看護婦教育所を設立

イメージ 看護婦教育所設立のために開かれた鹿鳴館慈善バザー 当時の看護婦は正式な教育を受けていなかったため、イギリスのセント・トーマス病院内のナイチンゲール女史の創設した看護婦養成所を見習い、我が国初の看護婦教育所を設立しました。この学校にも「病気を診ずして病人を診よ」という精神がみなぎっています。第1回生は、明治18年(1885)、13名が生徒見習いとして採用されました。
 患者さんは子どものようなものであって、看護婦は患者さんに対して乳母・保母のような立場にあるという考え方が貫かれていました。


りゃくねんぷ

嘉永2年(1849)    現在の宮崎市高岡町穆佐(むかさ)に生まれる。
慶応2年(1866)

17歳

 鹿児島に行き、石神良策について医学を修行する。
明治2年(1869) 20歳  鹿児島医学校(鹿児島藩立開成学校)で英医ウィリアム・ウィリスについて、医学及び英語を学ぶ。
明治8年(1875) 26歳  イギリス留学を命ぜられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学する。
明治14年(1881) 32歳   5月、成医会講習所(東京慈恵会医科大学前身)設立する。
明治15年(1882) 33歳  8月、有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)を設立する。
明治16年(1883) 34歳  11月、海軍将兵の脚気予防策として、海軍の兵食を改善する必要があることを明治天皇に奏上する。
明治18年(1885) 36歳  4月、看護婦教育所(我が国初の看護学校)を設立する。
12月、海軍軍医総監に任ぜられる。
明治21年(1888) 39歳  5月、医学博士の学位を授与される。
大正9年(1920) 70歳  70歳で亡くなる。



 
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