 
小学校に入学した頃の講平は、背も低くやせた体格でしたが、2年生になった頃から、毎朝登校前に往復7kmの材木置き場まで使いに行かされたり、日曜日には木材の買い付けのために40kmの山道を歩かされたりしたので、脚が鍛えられるだけでなく、ねばり強い精神力を身に付けていきました。この時の苦労が、後の長距離選手としての人生におおいに役だったのです。

中学校ではテニス部に入った講平でしたが、運動会での人気種目、6千mロードレースに出場して優勝し、テニス部の先生から「マラソンに本腰を入れて取り組めばオリンピックで日本代表選手として入賞するのも夢ではない」と言われたことから、長距離に取り組む決心をします。
それ以来、自宅から中学校までの6kmの道のりを走って通い続け、帰宅後も自宅近くの赤江小学校で長距離走の練習をしていました。
長距離走への情熱から、27歳で中央大学に進んだ講平は、オリンピックへの出場を目指して血のにじむような練習を重ねていきました。まっさらなグランドに自分のスパイクの跡が刻み込まれていくのが大好きで、練習を終えた後に一直線に刻まれた自分の足跡を見るのを楽しみに、猛練習に耐えたのだそうです。
その結果、1万mの時は170cm、5千mの時は175cmという終始乱れない歩幅を完成させました。その走りっぷりがあまりに正確で、まるで汽車の時間のようなことから、以来「お汽車」というあだ名がついたそうです。
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