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どんな人だったんだろう

じゅうじの母

 十次が生まれた村は、貧しい村で、十次の同じ年頃の友だちの多くが、日々の食べ物にも困るような暮らしをしていました。その中で、両親が亡くなり、だれも世話する者がいない少年がいました。十次の母は、その少年の親代わりとなって、愛情深く育てました。この優しい母のもとで育ったことが、将来の十次の生き方に大きな影響を与えたようです。


一冊の書物との出会い


 十次は、高鍋出身の医師荻原百々平(ももへい)から、キリスト教を学ぶことと、医師になることを薦められ、その紹介で岡山県の甲種医学校へ入学しました。
 医学校時代、十次は一冊の書物と出会いました。新島譲(じょう)の「同志社大学設立趣意書」です。その本の中には、新島がアメリカに渡り、苦学したことや国家の盛衰は教育にあると考え、教育を自分の生涯の使命としたことなどが記されており、十次は深く感動しました。教育の重要性を教えられた十次は、ただちに、郷里の馬場原に人材養成のための教育会を設立し、夏休みの間中、村の若者たちと共同生活をしながら、労働と勉学に励みました。


最初の孤児救済

 明治20年(1887)、十次22歳のとき、医者としての実習をしていた診療所の隣に大師堂がありましたが、そこは、巡礼の人や貧しい人たちの宿でもありました。十次は毎朝のように、大師堂に出かけていき、その人たちの身の上話を聞いたり、食べ物をあげたりしていました。そんなある日、母子3人の巡礼と出会い、「子ども二人を連れていては、だれも雇ってくれず食べていくことができない」という母親の話に同情した十次は、一人の子どもを預かることにしました。この男の子が、以後、十次が生涯を捧げた孤児救済の最初の子どもとなったのです。



孤児救済の決意

 預かる孤児が増えてくると、その資金集めに走り回る日々が続き、医者になるための勉強がほとんどできなくなりました。医者になることについて、父や母や郷里の人々が自分に期待をかけていることを思うと、十次は悩み苦しみ続けました。
 明治22年(1889)の正月「人間は二人の主に仕えることはできない」という聖書の一節を目にした十次は、医者を志す者は他にもいる。自分の一生を孤児救済に捧げようと決心しました。十次はそのことを確認するかのように、6年間学んだ医学書などをお寺の境内で、燃やしてしまいました。

じゅうじの教育方針

 十次は、孤児たちに家や食べ物を提供するだけでなく、次のことを目標に掲げて子どもの教育に当たりました。

一、心も体も健康な子どもに育てる。二、小学校(あるいは、能力のある者は高等科まで)卒業程度の教育を受けさせて、神や人を愛する正しい心の人に育てる。三、それぞれの子どもたちに、孤児院で生活する間に、何かひとつは職業技術を身に付けさせて社会に出す。

写真 密室教室の様子 さらに、十次は、子どもたちに体罰は加えないこととし、「米あらい教育」や「密室教育」を行いました。

 「米あらい教育」というのは、お米に水を繰り返しかけることで、お米がぴかぴかになっていくように、毎朝「賛美歌、聖書の朗読、十次のお話」を繰り返し行うことで、子どもたちの心を磨いていこうというものでした。
「密室教育」というのは、十次の部屋に子どもたちを一人ずつ呼んで、向かい合いながら、その子どもの悩みを聞いてやったり、十次の考えを伝えたりするものでした。
 また、十次は子どもは満腹するまで食べさせること、孤児院の職員と子どもたちが一緒に食事をすることを大事にし、このことが、岡山孤児院の「家族主義」、「満腹主義」とよばれました。

 

理想の国を求めて

 十次は、茶臼原に孤児院を移すと、労働を尊び、自然を愛するという理想郷づくりに全精力を注ぎました。
 明治44年(1911)の十次の日記に次の記述があります。

なんじ、自らちゃうすばるに鎮座し、鍬鎌主義を実行し理想の国を建設すべし。理想の国とは何ぞや、日く、一、私心私欲なきものの国なり。一、私有財産なき国なり。一、国民は、悉く鍬鎌主義をもって労働する国なり。

 また、大正2年(1913)、茶臼原孤児院の将来を夢見て、「茶臼原憲法」を発表しました。

一、天は父なり、人は同胞なればお互いに相信じ相愛すべき事。二、天父は恒に働き給う、我等も倶に労働すべき事。三、天恩に感謝のため、我等は禁酒、禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納むる事。

 十次は翌年、永眠しました。

写真 ちゃうすばる孤児院の稲の取り入れのようす


 
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