みやざきひむか学
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どんな人だったんだろう

祖母の教え

 大家族を抱え、生活に追われていた両親の代わりに、祖母が寿太郎の世話にあたっていました。寿太郎は祖母の話す義経や弁慶の話、秀吉の逸話などを聞くのが何よりも楽しみで、武士道的な教訓を学んでいきました。


様々な人々との交流

 寿太郎は、振徳堂では武士階級の少年たちとの交友を深めていましたが、家に帰ると、友だちは、将来は商売で身を立てようという隣近所の町家の少年たちでした。その頃、武士は算術を学ぶものではないという考え方が強い中で、寿太郎はそろばんを持って歩き回っていました。また、叔父が広い農地を持っていたことから、農繁期には手伝いに行き、農村の友だちもできました。このように、寿太郎は様々な環境の子どもたちとの交流を通して、幅広いものの見方や考え方を身に付けていきました。




写真 右端の人物がじゅたろう(15歳)振徳堂での様子

 寿太郎は学校では、一日の半分以上は学校内外のふき掃除と火鉢の配置、生け垣の刈り込みなどの仕事をして、学費などを無料としてもらっていました。しかし、限られた時間の中で、人一倍勉強し、先生や仲間たちから一目置かれる存在になっていきました。
 そして、14歳のとき、飫肥藩の代表として、長崎への留学生に選ばれました。


小倉処平との出会い 写真 小倉処平

 寿太郎の目を世界に開かせ、その人生に大きな影響を与えた人物が、飫肥の西郷と呼ばれた郷土の先覚者、小倉処平でした。
 小倉は、飫肥藩出身の安井息軒の門下生として江戸の三計塾に学び、同じく門下生であった陸奥宗光とも親交がありました。振徳堂で、小倉からその非凡な才能を高く評価されていた寿太郎は、最年少で長崎へ留学するとともに、小倉の政府に対する働きかけもあって、当時、小藩にとっては狭き門であった大学南校(現東京大学)に進学しました。



自分で道を切り拓く写真 留学時代のじゅたろう(22歳)

 明治8年(1875)、大学南校で学んでいた寿太郎は、西洋の文明に実際に触れて、国家百年の計を立てようという意気に燃えていました。
 このため、仲間5人とともに、海外留学生として派遣してもらうよう政府に働きかけていきました。当初、政府関係者は時期が早いと考えていましたが、寿太郎たちは、建議文を提出したり、政府要人を訪問したりして、ひたすら目標の貫徹に向けて全力を注ぎました。初めての文部省留学生として、大学南校から11名が選ばれ、その中の一人として、アメリカのハーバード大学に入学しました。


無私の人

 日露講話条約を締結して、帰国した寿太郎は、「弱腰外交」などと激しい非難を受けましたが、決して「弁解」をしませんでした。
 「私といふ一念は さきの世へ忘れて来しか 父なりし人」 この歌は二男の捷治が詠(よ)んだものですが、まさに「無私の人」寿太郎の姿が浮き彫りにされています。


青年学生に望む「誠」の一字

 「余はあえて人より特に優れたところがあろうとは思わぬ。もし万一にも、余にとるべきものがあるとしたならば、それはただ『誠』の一字に尽くされると思う。すなわち、学問に対しても、同胞との交際においても、将来を計るにも、いずれもこの「誠」の一字を忘れぬ覚悟でいる。これを小にしては、その身一人の処世上につき、また、これを大にしては、国家の見地より見た政治または事業等、いずれの方面にも『誠』の必要は何ら変わるところがないであろう。」

(「明治44年(1911)7月発行『中学生世界』第14巻第8号」より)


写真 外務省を出るこむらじゅたろうの棺の写真たたえられる業績

 小村寿太郎が亡くなったときには、外務省をあげて特別な葬儀が行われました。
 また、現在でも外務省の外交資料館には、小村寿太郎のコーナーが特別に設けられ、その業績がたたえられています。


 
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