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どんなことをした人なんだろう
写真 晩年の小村寿太郎はじめに

 明治27年(1894)の日清戦争後、我国は、 ロシア、ドイツ、フランスから内政干渉(三国干渉)を受け、 日本とロシアの対立など東アジアにおける国際情勢は不安定なものになっていました。
 明治34年(1901)に、宮崎県人として初の外務大臣に就任した小村寿太郎は、我国の国際的地位を高めるため、列強諸国を相手に、精力的な外交交渉を展開し、我国の発展のために多大な功績を残しました。




写真 ポーツマス講話会議メンバー
右から2番目が小村寿太郎、中央がアメリカ大統領ルーズベルト、左端がロシアの全権大使ウィッテ

写真 ポーツマス講話会議の様子

ポーツマス講話条約の締結

 明治37年(1904)に日露戦争がはじまり、日本が苦戦をしながらも優勢に展開する中、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、アメリカのポーツマス市で講話のための話し合いにはいることになりました。
 我国の財政はこの戦争のために逼迫(ひっぱく)しており、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。
 日本の全権大使が小村、ロシアの全権大使がウイッテでした。小村は明治38年(1905)8月10日の第1回の会談から、9月5日の日露講話条約の調印まで、ねばり強く交渉にあたりました。
 交渉にあたって、困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったということでした。
 このような中で、寿太郎は戦争終結のため、あらゆる外交努力を重ねて、困難を克服し、条約をまとめあげていったのです。

 

 

関税自主の回復

  明治41年(1908)に二度目の外務大臣となった寿太郎は、日本が開国のときにアメリカをはじめとする国々と結んだ不利な通商条約の改正に取り組みました。
 明治44年(1911)、欧米各国との交渉にあたり、それまで認められていなかった関税を自主的に定める権利(関税自主権)を回復させ、世界各国と対等に貿易ができるようになりました。

 

りゃくねんぷ

安政2年(1855)    日南市飫肥に生まれる。
文久1年(1861)

6歳

 飫肥藩校振徳堂入学する。
明治2年(1869) 14歳  英語を学ぶために長崎に留学する。
明治3年(1870) 15歳  大学南校(現・東大)に藩の代表学生として
 入学する。
明治8年(1875) 20歳  文部省の留学生に選ばれ、ハーバード大に入
 学する。
明治13年(1880) 25歳  司法省に就職する。
明治17年(1884) 29歳  外務省に転職する。
明治34年(1901) 46歳  第1次桂内閣の1度目の外務大臣になる。
明治35年(1902) 47歳  日英同盟の成立にかかわる。
明治37年(1904) 49歳  日露戦争が起こる。
明治38年(1905)

51歳

 ポーツマス条約の締結にかかわる。
明治41年(1908) 54歳  第2次桂内閣で2度目の外務大臣になる。
明治44年(1911) 56歳  関税自主権の回復のため、各国と通商条約を
 締結する。

明治44年(1911)

56歳  56歳で亡くなる。

 


 
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