 
『手製の望遠鏡で天体観測に打ち込み、とりわけそれまで(1950年代)あまり注目されなかった木星の表面の変化に興味を抱き、克明なスケッチと調査書を日本やアメリカの学会に送り続ける。』(注1)
『手造りの天文台を裏庭に完成させた昭和元年(1925)ごろの観測仲間たちは「当時はたいへんな食糧難で暮らしも心も荒れて、乾ききった状態でしたが、彼が主催する観月会や、流星群観測会などに参加することによって、夢や潤いを与えてもらうことができました。とにかく星一筋の人でした。あまり強くない体のいったいどこに、あんなエネルギーがあるのだろうと、感心し合ったものです」と口々に語っている。』(注2)
(注1〜2) (『平成10年(1998)12月23日、宮崎日日新聞』より)
宮崎は天体観測に適したところで、スターウォッチングも盛んです。木星観測の草分けであった一吉は、子どもたちのための星空教室を開くなど、普及にも努めました。
また、天体に興味のある学生たちが一吉をよく訪れ、星についての話に花をさかせたということです。
一吉は、みやざきの自然を愛していました。日中戦争から第二次世界大戦後にいたる困難な時代に、その天体観測に対する情熱とエネルギーをもちつづけました。そのエネルギーの根源がどこにあったのかわかりませんが、みやざきの仲間と自然がその支えとしてあったことだけは確かです。
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ツヤ夫人(79)は、「『月に人間が行けるようになったら自分はいの一番に行きたい。』
そう言ったことがありました。主人が亡くなって、人間は月にロケットで到着しましたが、いま主人が生きていたらどんな思いでしょうね。」と振り返っている。 |
(『平成10年(1998)12月23日、宮崎日日新聞』より)
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