みやざきひむか学
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どんな人だったんだろう    

父のくんとう
写真 小林幼稚園児とていうえもん
 貞一郎の父・貞右衛門は、1879(明治12)年に生まれ、幼い時に父を失って家を継いだので進学をあきらめて独学で勉強しました。若い時は行商を営んで家業を起こしましたが、そのかたわら勉学を怠りませんでした。子どもの教育にも熱心で、1915(大正4)年小林幼稚園を設立し、キリスト教精神に基づく幼児教育に力を注ぎました。貞一郎は、生来素朴で、飾るところがありませんでした。国の中枢にある官僚となっても、学生の時そのままのような印象がありました。貞一郎の髪には、整髪料などつけられていることはなく、国会でも、政治家にへつらところは少しもなく、厳然として信念を貫く答弁をしました。彼を知る人は、今も父の薫陶の深さをいいます。    
(宮崎県ホームページ『みやざきの百一人』より)


私が選ぶこばやしの五十年じゅうだいニュース

 (前文略)・・面倒がらず、よく勉強を教えてくれていました。日銀総裁になられても、忙しいのに時間を空けて会ってくれました。(当時は部下でさえもなかなか会えなかったと後で聞いたことがあります。)故郷のことをよく尋ねていました。そこでも総裁と呼ぶのはなんだか照れくさい気持ちでしたからそばにだれもいないときは貞ちゃんでした。貞ちゃんが小林に帰ってきたといっては、集まって飲んだものでした。集う仲間もみんな貞ちゃんの出世を我がことのように喜んでいたものでした。貞ちゃんは、人を分け隔てしない人でした。決して言葉をくずさぬ人でした。大きな声で人を叱ることもなかったと日銀時代の秘書から聞いています。相手の人格を平等に認めてくれる人で、だれにでも対等の気持ちで付き合ってくれる本当の人格者でした。
(平成12年、広報小林11月号より)
 
ようしょうの思い出

貞一郎さんの自宅とは叔母が森永家の類家に嫁いでから縁がありました。私の家の一軒隣でありました。貞一郎さんのお父さんがクリスチャンで、妹さんは三人も居られ、一人娘の私はよく遊びに行きました。二歳年下の松子さんとは私は同級生で、よく貞一郎さんに学校の算術を習って居りました。イエスキリストの絵やローマに伝わる絵を幻燈機でよく見せてもらいました。(後文略)   (『森永貞一郎おもい出集』より)

元内閣総理大臣 みやざわきいちしの話

 「あなたの一生のうちで一番の恩人は誰ですか」と聞かれたら、私はちゅうちょなくまず森永貞一郎さんの名前をあげると思います。(中略)森永さんに1年間お仕えして私は沼津税務署長に赴任することになりましたが、森永さんにお別れのご挨拶をした時、私は涙がとまらなかったことを今でも忘れません。ある大蔵省の後輩が、森永さんを評した言葉によれば、「まったく不思議な方で、仕事ができるといったこととは違うんです。政治的パワーとか人脈といった点でも、実はこれといったものがあったわけではありません。それなのに、みんなあの方の魔術にかかってしまうんです」と言っていますが、これは森永さんというお方をよく表現していると思います。     (『森永貞一郎おもい出集』より)

前宮崎県知事 松形すけたか氏の話 宮崎への思い

 (前文略)昭和54年に県政に大きな事件が起こり、私は突然、夜中に電話を受け、知事への立候補を要請されました。全く予想だにしなかったことだけに、一日の返事の猶予をいただくことにしました。大臣をはじめ、関係者の了解をとる必要があったからであり、それらを終え、最後に森永先生と電話が連絡がとれたのは、夜7時過ぎだったと記憶しています。私は、その経過を報告し、知事に立候補するべきかどうかの最後のご相談をしました。そのときの言葉は、いまだにわすれられません。それは、「ぜひ立候補して、郷土宮崎のため、全力をささげるべきである。自分は東京で官庁に勤め、いくつかの役職を歴任し、いろいろ相談を受けたり、お手伝いもしてきたけれども、地元にいたわけではないので、必ずしも十分でなかったように思う。よって、私の分まで郷土のために尽くしていただきたい。」ということでありました。
(『森永貞一郎おもい出集』より)

素顔の日銀総裁たちより パイプの煙
写真 愛用のパイプ
 森永氏は話をする合間、パイプを放さない。「推理小説」「囲碁」「パイプ」という取り合わせは円熟したインテリ紳士の趣味、小道具にピッタリで、都会風の印象を与えるが、ご本人は「私はガサツな人間」と自己批評する。そういえば都会風紳士に特有のキザな感じはなく、声は太いが服装、態度とも飾り気がなく、端正な容貌ながら茫洋の風姿である。髪の手入れは苦手な様子。背広にはたえずタバコの灰がまつわりついている。「田舎もの」と謙遜するその郷里の宮崎県では小村寿太郎(元外相)以来の人物として総裁就任が祝福されている。
 主計局長時代、野党各党から災害緊急対策予算を編成せよ、と迫られて「財源がない」と突っぱねた。さんざん押し問答を繰り返したあげく、「無理なことを言いすぎる国会も少しは反省すべきだ。」との森永発言がたたって議場は紛糾、「退場!」を命じられたことがある。シンは強い。本人は「私は元来短気だが、怒らないように気をつけている。」という。しかし、実際はかなりの照れ屋でパイプも照れ隠し小道具の一つ。
(『森永貞一郎おもい出集』より)


 
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