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コンペイトウにつられてヴァリニャーノの肖像画
   
 マンショが10歳の頃のある日、道ばたに座り込んで、地面に棒きれで絵を書いていました。その時、イエズス会のペドロ・ラモン司祭から「何をしていますか」と声をかけられます。びっくりしておどおどしているマンショにラモン司祭は「コンペイトウ」をくれました。初めて見るそれは、野苺のようにぶつぶつととがっていて、口に入れるとじわりと溶け始め甘みが口中に広がってきました。その後、ラモン司祭につられるままに教会に行き、いつの間にか、キリスト教の信者となって「マンショ」と洗礼を受けたのです。 



ヴァリニャーノとの出会い
 ヴァリニャーノが巡察使として日本に来たことによってマンショの運命は大きく変わりました。ヴァリニャーノとの出会いは、マンショが有馬のセミナリオ(神学校)で学ぶことになった開校式の時です。ヴァリニャーノは、マンショの英才を認め、天正遣欧使節に推薦しました。これがきっかけで、マンショは、イエズス会において、キリスト教の厳しい取りしまりの中にあって、信念をもって人々のために生涯を捧げることになります。

※セミナリオ:聖職志願者の予備教育を行う初等教育機関。 日本人宣教師養成のための学校


ありまのセミリオ 神学校 での学び

 マンショは、天正8年(1580)春、現長崎県の有馬のセミナリオ(神学校)に入学しました。後にマンショとともに天正遣欧使節となった「千々石ミゲル」「中浦ジュリアン」「原マルチノ」もいました。利発で好奇心あふれた少年たちは、ともに、ラテン語や音楽などを熱心に学びました。


8年かけた苦しい船旅と帰国

  天正10年(1582)に天正少年遣欧使節団として長崎を出港しました。船酔いと転覆の恐ろしさ、船中が40度にもなり、食物が腐ったこと、水葬した遺体の浮上など、長く苦しい航海でありました。到着したマカオでは、9ヶ月滞在した間に見聞を広め、語学や音楽を集中して学習しました。
  天正11年(1583)1月、マラッカに到着し、赤痢と熱病が船内にはびこり始め、マンショが倒れました。瀕死の重体をヴァリニャーノが必死に看病し回復しました。このような苦難を乗り越えてインドに着いたのは長崎を発って2年半後、イタリアには3年後に到着。4年後に帰路に着き、長崎に帰り着いたのは8年の年月を経過しており、マンショは、21歳の若者になっていました。


生涯を神とともに
ローマ法王とのえっけん式
 帰国して、ヨーロッパのすばらしさを学んだマンショは文化が甚だ遅れている日本のために何をすればいいのか考えていました。しかし、キリスト教禁止令のために彼らを取り巻く環境は厳しいものがありました。そのような中にあって、マンショのキリスト教布教と悩んでいる人々のために役に立ちたいという信念は強く、「日向にかえって一緒に暮らそう」という母の願いを断ち切って、ヴァリニャーノやヨーロッパで法王や国王に受けた期待を裏切ることもできず、神に仕えることを決意したのです。


いばらの道

 天下人、太閤秀吉(豊臣秀吉)に謁見し、ヨーロッパの様子を話したり、南蛮の楽器で演奏したりしましたが、キリスト教への厳しい取りしまりは変わりませんでした。
 マンショは、慶長6年(1601)から、マカオで勉強することになりました。3年後に長崎に帰り、しばらくして司祭に命じられ、萩(山口県)や九州各地で布教し、42歳の時、飫肥(日南市)にも招かれて行きました。故郷での母との会話、「母上お久しぶりです。お元気ですか。」「ありがとう。私は元気ですが、お前はなんだかやせていますね。病気ではありませんか。」「大丈夫です。でも近ごろはキリスト教の取りしまりが厳しくて、夜、布教活動をしますので、寒さが身にしみます。」からも察せられるよう、厳しい環境のなか、いばらの道をひたすら神を信じ、人々の幸せのために生涯を捧げたのでした。


幼年期の経験

 伊東氏が240年にもおよぶ長い年月をかけて、都於郡城を中心に築き上げた栄華は、戦国時代、島津氏に攻められ、終止符を打つことになりました。(木崎原の戦い)伊東氏一族は、都於郡城をあとに落ちのびることになります。その中にいたマンショは8歳でした。追っ手から逃げるために九州山地の道のない山奥に深く分け入り、寒さと飢えに苦しみながら歩き続け、豊後の大友氏をたよって落ちのびました。このときの耐え忍ぶことの経験は、マンショのねばり強い生き方に影響を与えたかもしれません。



 
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