息軒の生まれたころ、清武町は飫肥(おび)藩に属していました。
清武町には飫肥藩の役所があり、現在の宮崎市南部や清武町・宮崎市田野町を合わせた3万石を治める政治の中心地でした。
息軒の父は、ここ清武町で儒学(じゅがく)を教える学者でした。息軒は、「父に負けない学者になろう」という大きな望みを持って学問を志していました。
息軒は、私塾「三計(さんけい)塾」を開き、明治期に活躍する陸奥宗光(むつむねみつ)<外国との不平等条約の改正に努力し、治外法権の廃止に成功した外務大臣>や品川弥二郎(しながわやじろう)<明治政府の内務大臣>などをはじめとする2000人以上の門下生を育てました。時代を動かし新しい日本をつくる原動力となる人物を養成したのです。
息軒は文久2年(1862)63歳で幕府に召し抱えられ、幕府のお抱え儒学者として昌平坂学問所(幕府の学校)の先生となりました。幕末のころには、「海防私議」という本を書いて、世界の最新の動きや世界各国の歴史を踏まえて、国の防衛について進言したりもしました。
また、産業の発展のため、自ら養蚕の盛んな土地に出かけ、実状を調査し、「養蚕(ようさん)・製糸」の技術を人々に広めたりもしました。
※進言:上位の者に意見を申し述べること
中国の古い教え。孔子という人が、昔の人の教えをまとめたものです。江戸時代には幕府が儒教を幕府の学問として定めていたこともあり、儒学の勉強はとても盛んでした。
39歳で江戸に出るまでの間に、清武の明教(めいきょう)堂や飫肥藩の藩校、振徳(しんとく)堂の先生としてたくさんの門下生の教育にあたりました。
また、江戸に出た後も飫肥藩に「天然痘の予防のための種痘(しゅとう)」や「二期作」「養蚕・製糸業の振興」、「敬老のすすめ」など多くの進言を行いました。
※二期作:同じ耕地に作物を年に二回栽培すること。主に稲作をいう。
寛政11年(1799) |
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清武町で生まれる。 |
文政3年(1820) |
21歳 |
大阪に出て勉強する。 |
文政7年(1824) |
25歳 |
江戸に出て勉強をする。 |
文政10年(1827) |
28歳 |
明教堂の助教授となる。 |
天保2年(1831) |
32歳 |
藩校「振徳堂」の助教授となる。 |
天保9年(1838) |
39歳 |
江戸にいく。 |
天保10年(1839) |
40歳 |
「三計塾」を開く。 |
弘化4年(1847) |
48歳 |
「海防私議」を著す。 |
文久2年(1862) |
63歳 |
幕府の昌平坂学問所で儒学を教える仕事につく。 |
明治9年(1876) |
77歳 |
77歳で亡くなる。 |
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