
十次は、明治20年(1887)9月、孤児を助けるための「孤児教育会」をつくりました。「孤児教育会」は、やがて「岡山孤児院」とよばれるようになり、実に3千人を超す子どもたちを救済しました。
明治24年(1891)10月、愛知県と岐阜県にまたがる地方に大震災(だいしんさい)が起き、十次は孤児を救うための活動を起こしました。
また、明治37年(1904)には日露戦争が起こり、十次は、日本各地の孤児を救い、岡山孤児院は300名近い子どもたちをかかえることになりました。
さらに、明治39年(1906)には、東北地方の大凶作(だいきょうさく)による孤児を助ける活動をはじめました。

明治43年(1910)、十次46歳のとき、岡山孤児院のすべてを生まれ故郷である宮崎県の茶臼原へ移すことにしました。 岡山孤児院にあった宿舎・学校・集会場などを解体して船で運びました。
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