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宮崎人の夢と祈り
大地に残る城跡
戦国時代の宮崎
今からおよそ450年前、日向国は戦国時代のまっただなかにありました。日向国の中央部では伊東氏が勢力を保ち、地図のように多くの城をもっていました。都於郡城は伊東氏の居城でこれらの中心になった城です。
この時代、領主たちは領域をめぐって多くの戦争を繰り返していました。伊東氏も隣国の島津氏としばしば戦いました。
元亀3年(1572)木崎原(現在のえびの市)の合戦で伊東氏は島津氏に敗れ、天正5年(1577)には宮崎平野に進撃した島津軍を防ぐことができず、伊東義祐は大友氏をたよって豊後に敗走しました。これを受けた大友氏は日向国に進出し、天正6年11月、島津氏と戦いました。いわゆる耳川合戦です。激しい戦闘の結果、島津氏が勝利し、大友軍は豊後に敗走しました。この戦いの死者 は2万人とも4万人とも言われています。
(『宮崎県史 通史編中世』より)
合戦になると多くの戦死者を出しました。私たちの身のまわりにはそのころの供養塔(くようとう)が残っています。これらは大量の戦死者の霊をとむらために造られたものです。写真は小林市にある伊東塚です。元亀3年の合戦の伊東軍200人の戦死者を葬ったものといわれています。
左の図は当時の都於郡城を調査に基づきながら復元した絵です。都於郡城は南北約260メートル、東西400メートル、最高所と周りの田との高さの差は約80メートルあります。
(都於郡城想像復元図:三木靖氏作成[西都市教育委員会原図]『甦る 日向国都於郡城−都於郡城跡調査報告書−』財団法人観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)平成4年3月より転載)
左の写真は、江戸時代に作成された高城陣構図(たかじょうじんかまえず)という絵図です。
図の左に見えるのが高城という城です。戦国時代の城はこうした山城が多かったのです。現在の木城町にあります。天正6年の耳川合戦では、島津方の山田有信が城を大友軍から守りました。
(高城陣構図:日南市所蔵)
高城は現在の木城町の城山公園にありました。ずいぶん高いところにありますが、戦国時代の城は山城といって、山の上につくっていました。
木城町城山公園かつての高城跡
山の上には城の形をした時計台が見えます。
高城から木城町をながめる
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