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これは延岡市にある延岡城です。延岡城は江戸時代の城の姿をとどめています。
延岡城の最高所は約54メートル、南北約200メートル,東西約50メートル。本丸の北西側の石垣は「千人殺し」といわれています。
絵図の真中にあるのが延岡城で「本丸」「二丸」「三丸」が見えます。絵図の右上には「妙専寺」があります。絵図の真中の上には東口門があって、その突き当たりには家臣たちの屋敷があります。
また、城に行く道が 複雑になっています。それは、城の中に入りにくくするためです。
(「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」明治大学刑事博物館所蔵)
江戸時代の城は、石垣ややぐらなどをもつりっぱなものが増えましたが、城下町も発達しました。飫肥城を例に見ていきましょう。
左の地図は飫肥城とその城下町を示しています。3が飫肥城の大手門(おおてもん)です。ここから城内に入れます。7が旧伊東伝左衛門(いとうでんざえもん)の屋敷(やしき)あとです。このあたりはもとの家来(けらい)たちの屋敷のあとが多く見られます。10が商家資料館(しょうかしりょうかん)です。このあたりは本町といって町人や商人が住んでいました。
これは商家資料館です。この建物は明治時代の初期に飫肥の豪商山本五兵衛によって建てられたものです。
この建物は飫肥藩の家来だった伊東伝左衛門の屋敷あとです。江戸時代の終わりごろの建築と考えられています。
これは飫肥城の大手門です。今の飫肥小学校はかつての城のあとに造られています。
これは飫肥資料館です。
飫肥城内にあります。伊東家や家来たちに伝えられた、甲冑(かっちゅう)・刀剣・武具・衣服などが展示されています。
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