鵬の校章はどうやってうまれたのだろうか
宮崎大淀高校(現宮崎工業高校)に間借りした形で初年度を迎えた宮崎南高校は、当時、宮崎大淀第二高等学校と呼ばれていました。『希望の湧かない、ただ長いだけの名前』(佐伯初代校長)でした。
昭和37年(1962年)4月10日の第1回入学式を目前にしたある日、職員の一人がはっとしたように言いました。
「校章はどうするのか」
さっそく金谷向陽堂を呼んで既製品の帽章を大阪に注文し、入学式に間に合わせることにしたそうです。
そのときの校章は、銀色の五三の桐があしらわれていました。現在の校章ではなかったのです。
次の年の3月、帽章も何とかしなければということになり、先生たちから図案を募集することになりました。何十枚かの図案が集まったそうです。最終審査の結果、小野先生の図案が採用されました。
三方に延びる直線は大海の上を飛ぶ鵬を表し、黒潮の波頭がまとっているデザインです。
これは大空に羽ばたく若者の学び舎にぴったりでした。
この鵬が、柔道場の『育鵬館』の名称となり、体育文化祭の『鵬祭』の名前になっていったのです。
また、後に生まれる『図南飛翔』という言葉も、この鵬からうまれたといっていいでしょう。
南高校で行なわれる『鵬祭』のオープニングでは、実行委員たちが夏休みの間かけて作り上げた鵬が披露されます。