宮崎県立宮崎南高等学校
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創立物語 1962年の4月に宮崎南高校は誕生した。しかし、初年度は現在の校舎はもちろん、校名さえもなかった。

仮の校名には間借りした高校の校名に「第二」という言葉がつけ加えられていただけだったという。



 プロローグ
 40年たった今、人々は『伝統ある南高校』とよぶ。しかしその産みの苦しみはわれわれの想像をはるかに越えていた。この記録は、初代校長 佐伯英雄と職員、そして生徒たちがたどった苦難の記録である。

 七夕の日の新校舎移転
 真っ青な空の広がる暑い夏の日でした。宮崎南高校の初代校長となった私、佐伯は、月見ヶ丘の新校舎の前に立っていました。創設から1年3ヶ月、ようやく仮校舎と別れる日がきたのです。昭和38年7月7日のことでした。




「初代校長 佐伯英男」の写真
【初代校長 佐伯英男】
 今日の日を待ちきれなかった生徒たちは、体育の時間、鍋倉先生とともに走り、新校舎を見に行っていました。それも今日で終わりです。とうとう自分たちの学校に移転する日がきたのです。
 トラックが、大淀高校の木造の仮校舎から次々に机を運び出します。生徒たちは自転車でトラックを追いかけました。新校舎にトラックがつくと、次々に校舎に机を運びあげたのです。すべての生徒も職員も輝いていました。

 翌日、大雨が振り出し、校庭はもちろん校門までの道は田植え前の田んぼのようになりました。自転車はころげ、女生徒は靴がなくなったりしました。南高校の泥んこ道が有名になったのは、このときからでした。

雨で田んぼのようなぬかるみになった新校舎のグラウンド写真
【新校舎の粘土質の土地は雨が降ると田んぼのようなぬかるみになった】
「机や椅子をトラックから運ぶ生徒」の写真1

「机や椅子をトラックから運ぶ生徒」の写真2
【大淀高校に間借りしていたときに使っていた机や椅子等を新校舎に運び込む生徒たち】
 
 ただ長いだけの校名  
 この移転の1年3ヶ月ほど前のことでした。大淀高校の校長だった私は、夜中、人事のことで報告があって教育委員会に呼ばれました。もう12時を過ぎているというのに委員会の木造の庁舎は、あかあかと電灯がともっていました。野口教育長に報告を終えると、教育長から思いもかけない言葉が返って来ました。

校長室の写真

 「佐伯先生、あなたにも内示があります。」

 私は泡を食って、棒を呑んだように立ちました。
 「新設の普通高校に行ってもらうことに決まりました。新設はご苦労ですが、頼みます。」

 私は呆気(あっけ)にとられて立ち尽くしていました。この日から南高校の歴史が始まることになったのです。

辞令の写真
 4月1日、私は宮崎県立宮崎大淀第二高等学校長という辞令を受けました。希望の湧かない、ただ長いだけの校名でした。
 校舎は大淀高校の木造校舎を借りることになり、机も椅子もありませんでした。教室も暗く、昼でも蚊が出ました。鍋倉先生がよく教室にフマキラーをまいたものです。
 校長室もなく、売店を間借りしました。昼休みは、そこでパンが売られました。

  「それ、それだよおじさん。」

 おじさんという生徒の声に、後で情けなくて涙が出ました。
 
 匿名の投書  
 自動車も少なかった頃で、朝は自転車の生徒たちが、橘通りですれ違う光景が見られました。
 そのころ宮崎ではこんな言い方があったのです。

頭のいい子は北へ上り、頭のよくない子は南へ下る。

北とは大宮高校、南とは大淀高校のことです。

自転車通学の写真
 同世代の若者が、地域にたった二つしかない普通高校にはいる。そして一方はエリート意識、片方はコンプレックスを持ってしまう。そんなことは許されるはずがないではないか。私は第二高校の校長になる以前から、そのことを県の関係者に訴えつづけていました。
 「佐伯先生が一人合同選抜に賛成だそうですね」

と皮肉たっぷりに挨拶する人もありました。

 「私の主人は宮中、私は宮女、子供はみんな大宮を出ているんですから、どんなことをしても大宮に入れますよ。この自由の世の中に決まりではいる学校を決めるなんて時代逆行です。」

という抗議を聞いたと私に伝えてくれた人もいました。県の教育委員会へも数多くの投書が来たそうです。私にも投書がきました。

「お前は自分の利益と名誉のために、合同選抜を主張するのだろう。」

と書かれたこともあります。
 私は唇をかんで、返事のしようもない匿名の投書を見つめました。そして、「知る人ぞ知る」と呟(つぶや)いてみるよりほかありませんでした。どんなことがあっても、この新しく生まれた第二高校をコンプレックスの漂う学校にしてはならない。そう考えていました。
授業中の写真1

授業中の写真2
 
 校長先生もうだめです  
 そんな十二月二十日過ぎの朝のことでした。海上(うなかみ)教頭が新聞をわしづかみにして校長室に駆け込んできたのです。無言のまま私の前に差し出された新聞は、ぶるぶる震えていました。その社説には堂々と合同選抜反対の論説が出ていました。

あと一日か二日で県教委が最後の決定をしようというときのことでした。

 「もうこれでだめかもしれない。」

 二人で応接机を向かい合って座りながら、涙がぼろぼろ流れました。

 「しかしまだ決まったわけではない。最後の最後までやって みます。」

 「校長先生もうだめです。」

 「海上(うなかみ)先生、決めるのは新聞ではなく、県教委ですよ。今からもう一度行ってきます。」

 私が自転車に乗って出かけようとすると、海上(うなかみ)先生が気の毒そうに目を伏せて見送ってくださいました。出かけに見た職員室の沈痛な空気が私の心を重くしました。

 空は晴れて、大淀川の鴨が早くも空を飛んでいました。

  「だめかも知れない。」
  「やるだけやってみる。」
         
ペダルを踏みながらこの二つの思いが交錯していました。
海上(うなかみ)教頭の写真
【海上(うなかみ)教頭】
 
 あなたの名前は残りますよ  
 多くの反対論の中、県教委が合同選抜制の決定を下したのは、昭和37年12月末のことでした。このとき、大淀第二高校は、正式に宮崎南高校と命名されたのです。合同選抜が始まったのでした。
 「お前の意見が通って合同選抜が実施されたのだから、次の数の合格者を出すべきである。東大五名、九大十五名、宮大四十名・・・・これが不可能のときには、我等はお前の罷免(ひめん)を県教委に要請する。」

というような投書が学校に届けられることもありました。

 巷では、中学校長の子供が、大宮校区の人と養子縁組をして改姓したといった話が飛びかいました。その頃住宅の増え始めた宮崎駅東側は、学校区の境界になっていました。大宮校区側と第二校区側では、坪当たりの地価が千円違うという話も聞きました。

 私は「今に見ろ」と自分で自分に言うよりほかにはありませんでした。職員もみんなそんな気持ちだったはずです。
 「追いつき、追い越せ」。ことあるごとに、わたしは先生たちや生徒たちに、この言葉をかけ続けていました。

 「これであなたの名前は残りますよ」

 「そのおかげで迷惑をこうむるのは高千穂通りから南の頭のいい生徒ですよ」

 そういった人の視線を私は今でも思い出すことができます。
女子高生の写真

体育大会の写真1

体育大会の写真2
 
 学校が立派になれば  
 昭和40年2月に第一回生が卒業しました。九大に米田君が合格したし、宮大にも三十数名合格しました。

そして昭和41年、はじめての合同選抜一期生の大学進学の発表がきました。東大に四名をはじめ九大、宮大に数多くの合格者が出たのです。宮大の合格者は九十名を超えていました。

校内には万歳の声が溢れていました。

 こうして宮崎南高校の歴史は始まったのです。合同選抜は、大宮高校一校に人材を集めていた時代よりははるかに多くの大学進学者を生み出すようになったのです。

 二学期制の8時間授業は、生徒たちにも先生たちにも相当のプレッシャーを与えていました。部活動も文化祭も時間が切り詰められ、私は「追いつき、追い越せ」の号令をかけつづけていました。もちろん、勉強ばかりでなく、部活動でも鵬祭でも大きく育ってほしいと願っていました。しかし、それどころではないというのが、その頃の偽らざる気持ちでした。

 制服は、着るのは生徒たちだからと、生徒たちに決めてもらうことにしました。原田先生が、山形屋や坂本ボタン店に見本を依頼しました。大淀高校の講堂で、生徒たちや多くの保護者の方々に見てもらうことにしたのです。そう、南高校第1回目のファッションショーといったら怒られるでしょうか。そして圧倒的多数で今の制服に決まったのです。色が大人っぽいという意見もありました。制服はどんなデザインでも、学校が立派になれば評価が高くなるんだと、生徒には言ったものです。
授業中の写真

合唱する女子高生の写真

縄跳びをする女子高生の写真
 
 見ごとなとら刈り  
 そうそう、こんなこともありました。創立当時の男子生徒はみな丸刈りの坊主でした。私は、新しいバリカンを買って校長室に置いていました。最初の生徒を誰にしようかと思っているところで、上原君が目にとまりました。彼の教室まで行くと

「上原君、昼休みに一緒に弁当を食べるぞ」

と声をかけました。弁当をいっしょに食べた後、上原君に言いました。

「上原君、バリカンを買ったので最初に君の頭を刈らせてくれ。」

「先生、練習はしたのですか」
「君が最初の練習台だ。」

校長室のベランダで上原君にタオルをかけると、頭を刈ってやりました。

「じゃ、思い出のバリカンを今から入れるぞ。」
「先生、痛いが」
「初めてやから我慢しろ」

結果は見事なとら刈りでした。

丸刈りの男子学生の写真

バリカンの写真
 第1回の卒業生が出た昭和40年、長髪の問題で全校集会がありました。学校側と生徒の激しいやり取りのあと、わたしは、もう結論が出たと思いました。そして生徒たちにこういったのです。

 「君たちの気持ちはわかった。長髪を許可する。みんな自覚して行動するように」

 男子生徒はいっせいに歓声を上げました。

 「佐伯校長先生、ありがとうございます。」
全校集会の写真


 私は、昭和44年まで南高校にいて、そして、退職しました。わたしの南高校で植えた木は二七六一本です。その木々一本一本が、一人一人の能力を伸ばして大木に育ってほしいと思っています。いや、大木にならなくてもよい。山の中に役に立つ大切な木になれと思っています。

  山に苗を植えただけで美しい山になるのではない
  十年ぐらいは下草を刈り、雑木を切らねばならぬ
  その努力が、その心がけが
  何十年後かに
  美しい森林になるか
  荒れた雑木林を作るかの
  分かれ道となる。

初代校長 佐伯英雄

 エピローグ
 初代校長 佐伯英男の教育哲学を貫くヒューマニズムの精神が、合同選抜という制度を呼び寄せ、そして現在の宮崎南高校を生み出したといっても過言ではないだろう。

 あれから40年経った・・・・。
 2003年度に入学する生徒から合同選抜制度が廃止され、自由に高校が選べるようになった。
 これからも南高校の伝統にあこがれ、多くの若者がその門をくぐることだろう。

 そんな君たちこそ、伝統を受け継ぐであろう君たちこそ、この創立時の苦悩と信念を憶えておいてほしいのである。 そして、この共通の記憶こそが、次のあたらしい鵬達の物語を紡ぎだしていくことになるだろう。
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