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平成18年度 |
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もし、今、私が居なくなってしまったらどうなるのだろう。この本を読んで、そう不安になった。
唐突な友人の死から始まるこの物語では、オリーブの死は物語を始めるきっかけ位にしか書かれておらず、その後はマーサの家族模様や初恋などを軸に物語が進む。私は今まで死とは人生の中でとてつもなく大きな出来事だと思っていた。しかし、長い生に対して、死はほんの一瞬である。そして、そこを境にその人の命は終わる。別にオリーブの様に大人しく目立たない子でなくても、この世を去ればほとんどの人間はいつかは忘れられる。それは、私やマーサだって同じだ。そんな事実を真正面から突きつけられた。
その様な中で、次第にマーサは生に対する思いを募らせてゆく。今まで当たり前のように生きてきた自分が、実は色々な偶然の上で生かされていて、今までももしかしたら死んでいたかもしれないし、これから必ずやってくる死がいつどのように訪れるのかも分からずに生きていくのだということに気付く。私の場合、それに気付いたのは、マーサよりももう少し遅い年齢だった。
そして、この物語でもう一人、死を予感させる人物がゴッビーだ。彼女は急な事故で死んだオリーブとは違い、近い内に訪れるであろう死を厳かに受け止め、静かに別れの準備をしている。こんな時、普通であれば、敢えて死という話題を口に出そうとしないだろう。しかし、ゴッビーは自分の死を覚悟した上で、マーサに自分がいなくなっても、生きていける強さを持たせようとしている。そこから感じ取れるのは、暗い死では無く、最後まで炎を燃やそうとする命の強さだ。私はここで、真摯に命に対峙したときの人間の強さを実感した。
マーサは、ジミーが回すカメラの前で、死にたくない、と言った。それはオリーブの死を受けてだろう。しかし、その後はっきりと言い切っている。私は生きている、と。死に対する恐怖で生きているのと、はっきりと生を自覚して生きることは、同じようで全く違っている。確かに、私には差し迫った死の危険性がある訳でもなく、この様なことも、気付かなければ気付かなくても生きていける。ただ、生を意識しないで生きた人生よりも、生を意識した人生の方が、強い意志を持って、他人を慈しんで生きることができるだろう。私は、まだ生について何も知らす、この世に何も残していない、中途半端な人間だ。だから、生きなくてはいけない。生きなくては成長することもないのだから。
マーサの未来について考える。この物語では書かれていないが、いつかゴッビーは居なくなるだろう。それが、多炉絵どんなに深い悲しみを連れてきたとしても、彼女はこの世界で生きなくてはいけない。それは、彼女にとって、ゴッビーを失くすことと同じ位、辛いことかもしれない。でも、きっと彼女であれば乗り越えられるだろう。なぜなら、彼女は自分の意志で生きているのだから。そして、立ち止まっても、また進めるというのは、生きている人間の特権なのだ。
私も、このさき、どこかで大切な人を失うかもしれない。そんな時に、その人を忘れることもできないが、そこで立ち止まることもできない。その悲しみを乗り越えて、より強く、より愛を持った人間にならなくてはいけない。たとえ何度くじけたとしても、私もまた、この世界で生きていくのだと決めた人間なのだ。
この物語は、多くの幸せへの予感を残して終わっている。それが、実際に現実となるのかは分からない。しかし、生きていく限りは多くの可能性が生まれ、そして、それを実現させる可能性も生き続けていくのだ。
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